こんばんは。無事法事を切り抜けたメンヘラコミュ障ひきこもり女です。
本日は遠縁の子どもたちが遊びにきていて、何故か相手することになりSAN値が減った一日でした。誰かホイミとなえて
子どもにはどう接するべきか
ひきこもっていると年代性別関係なく、全人類対象にコミュニケーション能力はダダ下がりします。一部の例を除き、ひきこもり期間とコミュニケーション能力は比例する。(と個人的に考えます)
特に、小学生低学年の子たち(十代前半)ってもう20代後半の人間にとっては別次元で生きている子たちです。個人的感覚では。
どう乗り越えたのか
結論から先にいいます。
すべてはお猫様という存在のおかげである
最近、元野良猫の子猫が家族になりまして。
その子が元気よく親戚の子と遊んでくれたので(お猫さまが遊んでもらっていた)
私はそれをニコニコしながら見ているだけでよかったです。
猫アレルギーでもなく動物嫌いでもなかったことが幸いしました。
まさしくねこさまさまである。
猫様も思いっきり遊べてご満足なさったようだし。
(親戚が帰っていった後、爆睡していました)
猫様の存在はすべてを救う
小学生と接してわかったこと
テレビでみかける小学生の子たちは、すごく大人びいていて口も達者でなんかもうすごいってイメージがあったのですが、親戚の子たちは想像の範囲内という意味で「普通」でした。
人見知りしなくていい意味で無遠慮で元気な女の子
でも、やっぱり私が小学生だった頃に比べればしっかりしてたな、という印象を受けました。
テレビに出ている子たちは何らかの一芸にひいでいたり、そういうことになれていたり、それが仕事だったりするわけで「大人びいていたり」「しっかりしている」という印象を受けるのはある意味で当たり前なんですよね。
だからこそ、テレビに出演しているわけで。
自身が小学生だった頃と比べれば環境も時代も違いますし、第一個人差がありますからそりゃ違うのも「当たり前」
「思い込み」もまた偏見
突発的な出来事に弱い私にとっては事前情報で「Aという人は◯◯という性格」「Aという人はHという属性を持っていて、Hというという属性はIという傾向にある」と知るのはとても重要なことです。
でも、これって直接相手と合う前に「相手のことを決めつけている」ということでもありますよね。
事前に知識として頭に入れておくのは問題ない。
でも、「絶対的にそれを信じる」というのは偏見のもとになる。
いつかどこかで聞きました。
人に「ラベリング」をするのではなく「付箋」を貼ろう、と。
AさんにCというラベルを貼り付けるのではなく「付箋」を貼って、間違ったら剥がして新しくしったGということを貼り付けよう。
滅多に接する機会がなかった小学生の子たちと接して、「今時の小学生は◯◯」という偏見をもっていたことに気付かされました。
偏見をもっていたことに気づけた、という意味ではとても有意義な一日でした。
でも、見知らぬ人と接したことによる精神の疲弊がつらい(^q^)