この記事を読んで考えたこと。
すっごく乱暴にまとめると
「賢さ(結果)を褒めるより、努力(過程)を褒めたほうが向上心が上がる」
という内容(超要約)
また、
「賢さ(結果)を褒められたグループは、失敗することを恐れ自分より上のレベルの問題に取り組むのを止めてしまう」
賢さ(結果)を褒められたグループは自分よりレベルが低い集団の結果と比べて、優越感を得ようとする。
反対に、努力(過程)を褒められたグループは自分よりレベルが上の集団と比べる、向上心を得ようとする。
- 記事上に貼った記事内では賢さとは結果のこと。
- 勉強したあとの成績表を見て褒めること。
- 努力とは勉強している最中に「頑張ったね」と褒めること。
- つまり勉強をしているという過程を褒めているということ。
とわたしは解釈しました。
もちろん、これはある条件下におかれたひとつの研究結果の一つであって、
絶対のものではありません。
努力を褒められたほうがやる気がでる子、結果を褒められたほうがやる気が出る子、と個人差あると思います。
でも、この記事を読んでいて、うんうんと一人頷いていました。
「わたしの場合まさに賢さを褒められると失敗が怖くなるタイプだなぁ」
と。
褒められるジャンルだと途中でつまづいてしまうことがあるあるすぎる人生でした。
調子に乗って失敗した、とだけというのもあると思いますが。
たとえば、幼稚園の頃習っていたピアノ。
たとえば、切り絵をする時のハサミさばき。(ん?)
前者は褒められた後に「失敗すること」が怖くて、
逆に練習をすることができなくなりました。
「練習をしなかったからできなかった」という理由を作ろうとしたのだと思います。
努力を褒められる可能性を消して、
賢さが褒められる可能性もなくした。
「やればできる子なのに」というある意味、結果を事前に評価している言葉を求めていました。
(やればできる子、ってすごいプレッシャーをかける言葉だと思います。褒め言葉ではありますし、それでやる気がでる、自信がでる場合もありますけれども。
基本的に「やればできる」という言葉は結果を、記事内でいう賢さを評価している言葉だと思うのです(※現時点でおける個人的見解です))
後者は友人に「手先が器用なんだね」と褒められたとたんにハサミの位置が引いた線からズレてしまいました。今思えば、褒められたあとに「失敗するのが怖くなった」のだと思います。
友人が、親が、先生が、他の人がせっかく褒めたくれた分野で失敗する、期待されているであろう結果が出せない、というのは「褒めてくれた人」に対する裏切りだと思ってしまっていたのです。
褒められた分野ではつまづいてしまう。
停滞してしまう。留まってしまう。
褒められた分野が伸びない、伸ばせないというのは自信をなくさせるのに十分な理由でした。
「今」の結果よりもさらにいいものを。
そう考えれば考えるほど評価されるのが怖くなります。
「すごいね」と褒められた、その時よりも「すごくなかったら」
褒められなかったら?失望させてしまったら?
それがとても怖かった。
「やればできる子」という呪縛
「あなたはやればできる子なのよ」
という言葉は少なくとも「やれば結果を出せて当然」という意味にわたしのひねくれたこころは捉えてしまいます。
だからこそ、「やっても結果(賢さ)を出せなかったら?」という不安で、そこから先に進めないのです。
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