私は、嫌なことを我慢し続けてきたんだろうか。
だから、限界が来てひきこもりになってしまったんだろうか。
過去を振り返ってみるに「我慢すべきところ」で「我慢せず」に「我慢しなくてもいいところ」で「我慢してしまった」というか。
我慢しても良い、つまり甘えても良いところで甘えず、甘えてはダメなところで甘えて怒られて逃げて、ひきこもって、だめだめ人間になったのかも。
もしくは変化するのがめんどくさくて、目を背けてきたのかもしれません。
流されるのは楽だけど、それはそれで嫌だからというのもあったのかも。
変化はおそろしい。
人は不変を好む生き物です。
私は特に臆病であれこれ考えてしまってそれだけて疲れて一日何もできなくなるということがよくあります。
たぶん、考えて生きていくのにあまりむいていないのだと思います。
何も考えずに直感と感覚と勢いで生きていた方がよかったのかもしれません。
考えはじめてから、いろいろなことに「気づき」はじめてから生きにくくなった気がします。
この気付きというのは自己の気付きというか、自分と誰か、家族以外の第三者、自分以外の世界について知った、みたいな意味です。
「あまえる」ということについて (ポプラ・ブック・ボックス 王冠の巻 18)
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このまとめを読んで、なんともいえな気持ちになりました。
引用されているのは小学校(当時)二年生の少女の読書感想文。
その一部。
(親が書いたんだろと茶化す声もありますがひとまずおいときます)
なんていうかもうこの年でいろいろと差がでてるなという諦観と羨望。
あまえるということ、本当のがんばり、についていろいろと考えさせられました。
>『自ら望んで未来を創り出すための行動』
この作文を引用して紹介した方は「本当のがんばり」とは 『自ら望んで未来を創り出すための行動』だといいます。
ここで考えてみました。
「私が望む未来ってなんだろう?」
正直、まったくわかりません。
よくよく考えてみると幼稚園の頃から「周囲に合わせて」将来の夢を言っていた気がします。
中学校の頃は「ニートになりたい…」と明言していましたし(見事そうなってましたし)
「やってみたいこと」はあっても「なってみたいもの」はなかった。
「やってみたいこと」はあっても「やり続けたい」と思ったものはなかった。
何も考えずに「なんとなく」で生きてきて、考えないといけないときになって「なにもなかった」ことに気づいて呆然とした。
夢を叶えられる人は一握りだというけれども「夢とか特にない」という人間もけっこういるとは思う。
世間は「夢を持っていること」を前提に進んでいるみたいだけれども。
今、私には「やってみたいこと」はある。
でも「やり続けたいこと」なのかどうかはわからない。
本当に「やってみたかったこと」なのかも。
とりあえず、やってみないとわからないから、やってみようとは思う。
怖いしめんどくさいという気持ちもあるけれども。
結局、何もやらずに何も変わらないかもしれないけれど。
今年の目標ですし。