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玉響*花心風

「たまゆら*かしんふう」ひきこもりメンヘラ腐れ喪女がなんか書きなぐってます。

ひきこもりメンヘラ腐れオタ喪女が「得意なこと、やりたいこと」について考えてみた結果、

メンタル(ひきこもりあれこれ) 花信風(雑記)

 

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得意なことがなにもない\(^o^)/

 

こういうと「自分では気づいていないだけ」とか言われたりします。

「ずっとやり続けてきたことの中に得意なことがある」という言葉を聞いたことがありますし、「社会的経験を積んでいく中でやりたいこと、得意なことがみつかる」とも言われますね。

 

 

でもですね。

冷静に成って今までの人生を振り返ってみて、

 

目次。

       

   

 

ずっとやり続けてきたこと

惰眠

妄想

読書(二次創作やネット小説を読むことも含めて)

 

に集約されることに気づいた時に私の絶望感

 

その上に、コミュ障て出不精でひきこもりで社会的経験が圧倒的に足らない今の私にも得意なことが見つかるのでしょうか。

 

ネガティブになっているつもりはないのです。

ものすっごく冷静に現実をみて考えているつもりです。

「得意なこと、できること」ってないよなぁ…と。

 

「やり続けてきたこと」も「自分の快楽(楽しいこと)を追い求めること」だけで、こう…なんていうか身になるようなことでもないですし。

 

やりたいこともない

ほんと、やりたいことが

特に無いっす。

あえていえばだらだら生きたい、働きたくないでござる!(人間のクズという自覚はある) 

 

夢…というものは昔はありました。

中学生時代からずっと作家になりたいと思っていました。

でも、ここ数年作品作りに対するモチベーションが著しく低下しています。

(あと、ある意味では作家になりたいという夢は叶っています。別に出版したとか賞を受賞したとかではなく考え方によっては)

 

 

何も書く気になれません。

そもそも、なんで私は作家になりたかったんだろうか、と自問自答しています。

文章を書くのは嫌いじゃない、とは思う。

 

でも、最近キャラクターや世界観を考えるのがめんどくさくなったし、他人の作品を拝見して「素敵!私もこんな感じお話を書きたい!!でも、ここはこうしてああして!」という創作意欲が掻き立てられることもなくなりました。

 

昔は、他の作品にインスピレーションを受けました。

すごくドキドキわくわくして楽しくて楽しくてしかたなかった。

どんどんネタが溢れてきたし、はたらかみたらどれだけくだらないものだとしても考えるのが楽しかった。

 

でも、今は何も楽しくない。

ただ息苦しいだけ。

 

こんな時思い出すのは茨木のり子さんの詩の一節

 

自分の感受性ぐらい

自分で守れ

ばかものよ

           茨木のり子

出典・引用:『自分の感受性ぐらい』

 

有名すぎるぐらい有名な方の有名な詩ですが、大学生になるまで知りませんでした。

創作関係に携わる人もそうでない人も全文読んで欲しい詩。

 

ただ、今の私のように迷走というか失速している時に読み返すとものすっごく心にダメージがきます…

 

つまるところ、

 

自分の感受性を守れてない人間の現状がコレだよ!!

 

 

こうなった原因

うーん、安直だけれどもやはり「こころの病」になったことが一番大きいかなと思います。

うつ真っ盛りの時はお風呂もトイレもめんどくさかったですし。

 

日々のルーチンワークなどをしている最中は「今やり終えても明日やることになるんだよな。死ぬまで一生繰り返すんだよな…あぁ…もう人生辞めたい…」という暗くて重たい思考に支配されてました。

 

 本当になんかもうすべての出来事が「人生辞めたい。フライング・ハイ!」という解答を無理やり導き出していてました。

途中の計算式めちゃくちゃな感じ。

 

なーんにもたのしくないんです。

生きてるだけでくるしい。

 

生物が基本的に「生きたい」と生存を望むのが正しいのならばその反対の「終わり」を自主的に望むのは「バグってる」といっていいようなものだなと今では比較的冷静に思い返せます。

 

性格というか思考に問題あり

あとは、能力に見合わない自信満々さと調子に乗りやすさ、ですかね。

この組み合わせで察しのいい人はわかると思いますが、「自分はできると思う」→「それなりにできた」→「調子に乗る」→「失敗して大きなショックを受ける」

 

以後、失敗したことには近づかない、やらない、避けるようになる。

 

やらないからそりゃうまくもならないわけで。

それなりの環境でそれなりに生きていれば体験するであろう人生イベントの大半を「怖いから」とい理由で逃亡しました。

経験値がたまらないわけだよ。

 

謙虚と卑屈は違う

幼いころの私が「謙虚と卑屈を履き間違えたのがネガティブな性格形成への道筋を作ってしまったと思い返して「ジーザス…」と天を仰いでいます。

 

どういうことを言われたのか詳しくは覚えていないのですが、母に「謙虚であることはいいことなんだよ」と的なことを言われて褒められました。

(実際に母は謙虚という言葉は使ってません)

 

確か幼稚園時代に同じ組の子に何かを譲ってあげたり、失敗したこと「◯◯ちゃんは、私より走るのが得意じゃん!」って慰めたことを先生が何かの機会に母に報告。

それを褒められた、って感じだったと思うのですが…

 

私はそれを「そっか、こうすればお母さんに褒めてもらえるんだ!」と思いました。

そして何を思ったのか「自分を下げることで相手を褒める」ということを繰り返しました。

 

また口には出していませんが、誰かがかけっこで一等になる、文字がうまい、絵が上手、というのを見聞きすると「あの子は私より◯◯がすごい」「それに比べて私はだめだ…」という卑屈な思考がクセになってしまったのです。

 

思い返して、「なんでそうなった(真顔)」と当時の自分に問いただしたい。

 

また、あれっすね。

「ひふみちゃんは感性が独特で絵の才能があります!」って保育士のお姉さんにお世辞で言われたのを調子乗って「わたし才能あるんだって!」って言いふらして「はぁ?どこが?」とか「変な描き方してるww」という集団生活における出る杭は打たれるという目にもあったりしたからでしょうねええでもあれは言いふらして偉そうにしてたわたしがわるかったんやでうん…あと家庭環境の影響も無きにしもあらず

 

他人と比較しすぎた

家族はあまり「他人の家」とは比べて「◯◯家の◯◯ちゃんはちゃんとできるのにあなたはなんでできないの」とは言いませんでした。

皆無だったわけではありませんが、周囲の話を聞くに少なかったほうだと思います。

 

比較していたのは私自身です。

 

家族は器用な人が多く、コミュニケーション能力も高い人が多いんです。

不器用でコミュ障な私とは正反対ですよね。

 

物心ついてなんとなく自分と家族の違いを感じ取って、親戚からの悪意なき一言「ひふみちゃんはなんか(他の家族と)違うよね」にトドメを刺されました。

 

周囲が私と誰かを比較することは少なかったのですけれども、その代わり自分が自分と他人を一番比較して、勝手に落ち込んでいたんです。

 

「自分は自分」「他人は他人」と切り分けて考えることはできませんでした。

妬みに羨みに憧れに…そして最後は自分は何故ダメなんだという劣等感に苛まれていました。

 

今は比較的マシになりましたが、長年付き合ってきた思考の癖とその結果生まれた劣等感君は気を抜くとひょっこりと顔を覗かせてきます。

 

「楽しい」と感じていたことが面白くなくなったら、

 

それは心の危険サインです。

感受性が守られていない証拠。

水を与えるのを忘れてしまっています。

 

辛いことがあるなら投げ出しましょう。

誰かに泣きつきましょう。

法律でぶんなぐってもいいんです。

敵前逃亡しちゃいましょう。

 

気をつけないと感受性の湖が枯れてしまいます。

自分でまもれない、ばかものになってしまいます。

 

一回枯れると、もとに戻るまで何年もかかりますし、

クセになってもとに戻ってもすぐに干上がってしまいます。

 

 

得意なことがないこと、やりたいことがないことについて理由を考えてみた

 

んだけれども、話が脱線しすぎて文字数がすごいことになっている気がしないでもないです。いつだってそうだだからだれもおまえをあいさn(r

 

まとめてみると「楽しいことが楽しいと思えなくなったら精神がやばい状況だと思え」ってことです。

ここに集約されます。

 

卑屈な性格とか劣等感が強いとかは得意なことが見つからない理由ではありますけれども、「やっていて楽しいこと」は卑屈だろうと劣等感の塊だろうと「楽しいと感じる」でしょう。

 

他に楽しいことができた、趣味が変わったっていうだけなら平和なんですけれども「なにもかも楽しくない」「生きるのがつらい」となったらOUT!っす