ひきこもりの息子を親が殺害してしまった事件について、定年退職し高齢になった親とひきこもり無職の子供という問題についてメディアでは騒がれてます。
私はこの問題を目にした時、
他人事じゃねぇわ
いつかの自分だわ
もしくはIFの私だ
という思いにかられました。
以下ぐだぐだ語ります。
現在、私はひきこもりです。
約6年はひきこもりの定義に当てはまった状態にいます。
カウンセリングに通っており、薬物治療も受けていて、少しの外出や対人恐怖も薄くなってきましたが、それでも同じ年代の”普通に”生活している人々に比べて一歩も二歩も三歩も出遅れてしまっています。
現在は実家の家業を手伝うという形で働いていますし、最低限の家事もしています。
家族中も悪いというわけではありません。
心療内科につれていってくれるていどには理解はあります。
でも、家業の仕事は親の体調次第ではいずれ廃業する予定のもので、業種自体にも明るい将来がありません。
廃業したら、私は無職になります。
どうなるかわかりませんが、親世代の年金はギリギリ配給されるのではないかと思いますが、その時期からなくなったら家族全員で生活保護を受けるしかありません。
とりあえず、親の年代の年金はもらえると考えます。
それでもなお、私個人は無職であり無収入となります。
兄弟はいますが、私の面倒をみてくれる保証はありませんし義務もないです。
対人関係が怖い、技能がない、社会経験がない、友達いない、ないないづくし
今はいいとして、親がいなくなったあと、親しい友人もいないコミュ障ひきこもりの私は”無敵の人”になる可能性があるのです。
もしかしたら、彼は私だったのかもしれない。
もしかしたら、私は彼になるのかもしれない。
大きく社会を騒がせた2つの事件。
どちらも”もし”なにか一つボタンをかけ違っていたらそこにいたのは私だったのかもしれない。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回ってとまりません。
その”もしも”をなくすために、最悪の未来を回避するために何ができるのか、今から本気で備えて、あがいて、どうにかすべき、なのでしょう。